2021/12/09さ行
『近世質屋史稿』【資料1】には、「江戸では「下タ質」、関東農村部や京都では「送り質」、大坂方面では「又質」など」と呼ばれ「すくなくとも江戸時代中期(1720年ごろ)にはかなり普及していたと思われる」と書かれており、質屋が質物をさらに他の質屋に質入れする下質は、一般的に行われていたことがわかります。 質屋...
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2019/07/19さ行
(回答) 『日本人の坐り方に就て』(【資料1】)によれば、諸説あるが明確にはわからない。数々の史料から古くから形があった事は推察できるが、絵巻物等をみる限り人物のほとんどがあぐらをかいているので一般的ではなかったといえる。今日のように一般的に正座をするのは元禄、享保ごろからであろう。『正座と日本人 ...
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2018/03/29さ行
(回答) 『参勤交代(講談社現代新書)』【資料1】に、他藩領内の通行儀礼について詳しく記載されています。 通行する藩の行列は、「原則として前もって使者を派遣し領内通行を謝す。使者は、御供の歩行頭(かちがしら)か御膳番から選ばれた。」とあり、秋田藩士後藤理左衛門の「御徒頭(おかちがしら)勤中日記」に記録さ...
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2016/09/23さ行
(回答) 現存する史料によれば、正しい名前は「信繁」ということになります。「幸村」の名は寛文年間に成立した『難波戦記』に記されたのがはじめとされます。幸村と言う名を、どうして名付けたのかという理由は、当館蔵書では回答は見つかりませんでした。史実とは異なるとはいえ、幸村という名も歴史が古く人口に膾炙...
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2015/12/15さ行
『写された幕末 石黒敬七コレクション』【資料1】に、「手が大きくなると迷信され、揃って手を袖のなかに隠す武士と遊所の女達。」とあります。『歴史読本 2014年5月号 古写真集成 幕末・明治の100人』【資料 2】にも、写真に写ると手が大きくなる、また、手によくないことが起こるという俗信があったという説が載って...
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2015/08/19さ行
「御品書き」と書かれた資料は見つけられませんでした。「覚」と書いてある資料もありますが、頭書きのない物もあり、さまざまなようです。 (回答プロセス) 【【資料1】『江戸あきない図譜』によると、「行灯に書かれた品書き」として「覚」と記されてる資料あり。特に頭書きはなく、品名を連ねた札もあり。【資料2...
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2015/06/08さ行
東京上野にある西郷隆盛の像は、明治31(1898)年建設。西郷隆盛は高村光雲作、連れている犬は後藤貞行作。建設発起人は鹿児島県出身の樺山資紀など。 設置場所については、議論が重ねられた結果西郷ゆかりの地である上野に落ち着きました。 (回答プロセス) 【資料1】銅像建設発起人の一人である樺山資紀の伝記『父...
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2015/06/08さ行
【資料1】『御当代記 将軍綱吉の時代』【資料2】『国史大系』(第42巻)とも伊東淡路守基祐(伊東基祐)と書かれています。 ※インターネットでは「伊藤基久」と書かれているページもあるが出典見つけられず。 「生類憐みの令」については 「生類憐みの令とはどのような法令か。」参照のこと http://crd.ndl.go.jp/refere...
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2015/06/08さ行
【資料1】『東京史跡ガイド 18 荒川区史跡散歩 東京史跡ガイド18』によると、「明治3年4月1日で隅田川貨物取扱所といい、明治34年10月1日隅田川貨物駅と名称を変えている。」場所は現在の南千住4丁目、JR南千住駅の東側。現在も隅田川貨物駅という名称である。 【資料2】『明治前期・昭和前期東京都市地図 1 東京東部...
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2015/06/08さ行
隅田川は上流を荒川とし、荒川の下流(東京都北区岩淵地点)で隅田川として分かれて、東京のまちの中を蛇行して東京湾に流れます。よって水源は荒川と同じ、起点は岩淵水門とし、長さは約23.5kmです。 (回答プロセス) 「隅田川」の川としての定義は長い間曖昧でした。承和2(835)年にはすでに「住田河」とし...
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2015/06/08さ行
生類憐みの令は、五代将軍徳川綱吉時代に発せられた生類愛護を趣旨とした一連の政策を指しており、「生類憐みの令」という名称の単一の法令が存在していたのではありません。 (回答プロセス) 『江戸時代の古文書を読む元禄時代』(徳川林政史研究所監修,竹内誠他著,東京堂出版,2002,2100/734/002)によれば、その...
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2015/06/08さ行
江戸で飲まれていた酒は大部分が上方から輸送された「下り酒」であったようですが、いくつか江戸の酒もありました。 『江戸買物独案内』(花咲一男編,渡辺書店,請求記号:1974,請求記号:6721 / 22 / 74)(備考※1)、『江戸の商標』(花咲一男編著,岩崎美術社, 1987,請求記号:6721 / 25 / 87)、『「お菓子とお酒の大合...
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2015/06/08さ行
【資料1】『東海道五十三次ハンドブック』【資料2】『今昔東海道独案内』では「午前四時頃」と説明されています。 ただし、江戸時代は現代とは時刻制度が大きく異なります。江戸時代の時刻制度では「日の出と日の入りを境に昼夜を区別し、それぞれを六等分」(【資料3】『江戸時代館』)しました。これを不定時...
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2015/06/08さ行
『立川の歴史と風土 第3集 立川の水車をさぐる』(立川市教育委員会,1999年,C3669/2136/19-3)によりますと、水車は昭和17年(1942)には日本全国で7万8000台もあったそうです。現在では稼働している水車を目にすることは殆どなくなりましたが、水車研究の本はいくつか出版されています。 江戸時代の水車の規模や情況...
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2015/06/08さ行
江戸時代、一般の洗濯の汚れ落としには、無患子(むくろじ)の皮、さいかちの実、灰汁、石灰、米のとぎ汁などがよく使われました。しゃぼん(石鹸)は安土桃山時代に南蛮(ポルトガル)より伝わったとされていますが、しゃぼんを使用できたのは極めて限られた人々だけで、主として医薬用に用いられました。石鹸が家庭...
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2015/06/08さ行
助六は「歌舞伎十八番」の中で、その名がひろく知られています。それにちなんで、助六ずしは歌舞伎鑑賞のときに出された(売られた)からこの名があるのかというと、そうではなく、助六と恋仲の花魁に揚巻(アゲマキ)があり、ここからアゲずし(稲荷ずし)とマキずしのセットを助六ずしと呼ぶようになったのだといい...
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2015/06/08さ行
江戸時代の人の身長は、墓地などから発掘された人骨(おもに大腿骨)の長さから推定されています。推定身長を出すための計算式や、サンプルの採り方などで若干の差はありますが、おおむね“男性155~158cm”“女性143~146cm”の範囲内におさまるようです。 (1)『骨は語る 将軍・大名家の人々(*)』(鈴木尚著 東京大学出版...
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2015/06/08さ行
江戸時代を経て、今日までのこるはきものの中に、「雪駄」があります。雪駄も草履も区別のないもののように考えがちですが、正式には草履の裏底に革をはったかたちのものが雪駄です。 雪の日、水気が湿り通らないように考え出されたといい、ゆえに「雪踏」とも書かれ、雪駄(という語)につながっています。雪の日の茶...
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2015/06/08さ行
蒸籠。読みは「せいろ」、正しくは「せいろう」です。『蕎麦の事典』(新島繁編著・柴田書店・3838/159/99)によれば、蒸籠は「もりせいろ」と「ざるせいろ」に大別され、もりせいろは長方形、ざるせいろは角と丸があり、角は正方形とあります。『蕎麦辞典』(植原路郎著・東京堂出版・ 5963/10/96)には、原型は正方...
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2015/06/08さ行
今日われわれが一般に食べる麺状の蕎麦は、江戸時代の文献には「蕎麦切り」とみえます。蕎麦は、古くは「蕎麦がき」などのように餅状で食され、(諸説ありますが)麺状のものは江戸時代初期にできたとされます。「二八蕎麦」という言い方は、1杯16文の時代が長かったので2×8=16(文)という値段からきたとする説、つ...
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