2023/02/13か行
(回答)【資料1】『学習院大学史料館ミュージアム・レター』第33号に1947(昭和22)年11月14日撮影の航空写真と1947~1951(昭和22~26)年頃の周辺図を見ることが出来、これによると同時期周辺に皇太子仮寓所だけではなく、学習院中等科校舎や学生寮もあることが分かります。現在、小金井公園にある江戸東京たてもの園...
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2020/11/11か行
(回答) (1)デザインの由来。 『大(Oh!)水木しげる展』 ( 朝日新聞社 平成16年4月 請求記号:M3624/TO-3/270 p.163)によると、都民の日のバッジは昭和30年~平成9年(1955~1997)に東京都によって制作されました。漫画家・清水崑によるカッパのデザインになったのは昭和34年(1959)からで、採用された理由は「清水...
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2019/07/19か行
(回答) 「かねやす」は地名と店名として知られる。地名としては本郷三丁目の兼康横町。『御府内備考』によると、兼康祐悦という口中医師(歯医者)が住んでいたことに由来する。店名としての兼康はこの地に祐悦が開いた店。享保年間(1716年頃)から乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したという。質問に...
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2017/06/29か行
ガマの油とは切り傷などに効くといわれた膏薬で、販売する際の刀を使った派手な実演や特徴的な口上で知られました。現在よく知られている「筑波山のガマの油売り」の口上は、【資料1】『江戸の大道芸人 庶民社会の共生』によると上方落語にルーツがあり、恐らく昭和初期に関東に伝わってから「筑波山のガマの油売り」と...
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2017/05/23か行
以下の参考資料では、明治時代、築地に所在していた「東京築地活版製造所」や、「平野活版製造所」(回答プロセス参照)による印刷物について掲載されている。 【資料1】『「活字文明開化 本木昌造が築いた近代」図録 印刷博物館開館3周年記念企画展』 ※下記「図」とあるものは写真あり p.34図12(32)『花ノ栞』(明治...
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2017/03/29か行
文献史料のうち特定の差出者・受取者があるものを文書と言い、日記や文学作品等とは区別する。 以下の参考資料では、古文書を公式様(くしきよう)・公家様(くげよう)・武家様(ぶけよう)と時代と形式で大きく3つに分け、伝来のころから中世または近世まで、それぞれの形態や様式について書かれている。 (回答プ...
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2016/09/23か行
(回答)どの店がいつ最初に始めたかは所蔵図書では分かりませんでしたが、顧客サービスと宣伝の意味でも行われたようで、当時の川柳にも詠まれています。特に三井越後屋や大丸などは有名でした。 (回答プロセス) 「ごふくやのはんじやうを知ルにわか雨」等、貸し傘についての川柳は多数残っている。有名な三井越後屋呉...
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2016/02/03か行
かつての角筈一丁目と西大久保一丁目辺りの町名が歌舞伎町と命名されたのは昭和23(1948)年。戦後、娯楽街として歌舞伎を上演する劇場を建設する予定だったため「歌舞伎町」と名付けられましたが、計画はとん挫し現在に至ります。 (回答プロセス) 【資料1】『江戸東京学事典』によると、戦後、娯楽街として歌舞伎を...
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2015/06/08か行
1960年代、東京や大阪などの都市部では、自動車の排気ガスや工場からの排煙による“スモッグ”、大気汚染の問題が深刻化していました。(参考『東京広報』’68増刊号“特集・都市公害”他) 昭和43(1968)年に発売された≪大東京名物 空気の缶詰≫は、そんな都会の汚れた空気を詰め込んで東京名物とする、シャレを効かせた商品...
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2015/06/08か行
記録されたものだけということになりますが、文献の種類、火事の範囲や大きさ等によって90件から2000件まで数えられています。 (回答プロセス) 【資料1】『東京市史稿 変災篇』第4・5巻には天正18(1590)年~明治40(1907)年の江戸東京の火災編年集。【資料2】「江戸災害年表」には『東京市史稿』に基づく災害年表。...
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2015/06/08か行
実際に測定した数字が出ているものは当館資料では見つけられなかった。 以下、(参考資料)から。 【資料1】『咸臨丸日記』ジョン・マーサー・ブルック/著(『万延元年遣米使節史料集成』第五巻 日米修好通商百年記念行事運営会/編 風間書房 1961年 請求記号:2105 / 490 / 005 p.140)によれば「勝麟太郎は大変小柄...
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2015/06/08か行
江戸東京博物館の常設展示室に復元模型がある第一国立銀行。 明治5年(1872)、三井組が銀行業務のため、兜町に建てたものだが、その後まもなく、第一国立銀行に譲渡された。 設計施工は二代目清水喜助。 取壊された時期や経緯が記載されているものは少ないが、『日本の美術 第446号(2003.7)』(至文堂)に掲載の特別寄稿 ...
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2015/06/08か行
諸説あります。【資料1】『日本風俗史事典』によると、「佃煮」【資料2】『「食」で地域探検 5 肉の郷土料理』によると、「江戸前ずし、ちゃんこなべ」【資料3】『大江戸美味(むま)草紙』によると、「寿司、鰻、そして天ぷらで『江戸前』の三役そろい踏みとなる。」【資料4】『47都道府県・伝統食百科』によると、「すき...
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2015/06/08か行
大岡越前守忠相、吉良上野介義央、などに見られる「○○守」「○○介」のことを「受領名」「官職名」などといいます。もともとは7世紀半ば以降の律令制において成立した国司の職名でしたが、室町時代以降は名前ばかりの官位として、公家や武士の身分、栄誉の表示にすぎなくなり、明治維新まで続きました。江戸時代におい...
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2015/06/08か行
正月の門松や松飾りは年末年始にかけて飾られ、門松を立てている期間を「松の内」などといいます。門松をとりはずす日は所により違いますが、早いところで1月4日、1月7日や15日に撤することが多いようです。とりはずされた門松は1月7日や小正月(1月14・15日)の行事「どんど」(「とんど」「左義長」「鳥追い」ともい...
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2015/06/08か行
御三家(尾張・水戸・紀伊)のように独立した大名ではなく、江戸城の田安・一橋・清水門内の屋敷に居住、将軍家内の部屋住の地位にあった、とあります。すなわち、御三卿=田安・一橋・清水家です。田安家は1731年(享保16)に創立、祖は第8代将軍吉宗の二男宗武。一橋家は1740年(元文5)に創立、祖は同...
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2015/06/08か行
明治4年(1871)8月、政府は「散髪脱刀令」を布告して断髪を許し、これを奨励しました。有名な「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という詞は、同年5月『新聞雑誌』第2号に掲載されて流行したものです。すすんで断髪し、いわゆる“ザンギリ頭”にする者が増える一方、髷に執着する者も多くありました。明...
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2015/06/08か行
日本では、明治6(1873)年に、それまで使っていた天保暦に変わって、太陽暦(グレゴリオ暦)を採用しました。明治5年の12月3日が、明治6年の1月1日に変わったのです。改暦以後、太陽暦は新暦、天保暦は旧暦と呼ばれるようになりました。 天保暦以前の暦では、宣明暦、貞享暦、宝暦暦、寛政暦があり、天保...
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2015/06/08か行
辞典としては『江戸語大辞典』(前田勇編,講談社,8135/3/74)『江戸語辞典』(大久保忠国・木下和子編,東京堂出版,8183/7/91)などがあります。『東京弁辞典』(秋永一枝編,東京堂出版)も大変参考になることでしょう。また、用例、出典にエピソードなどがふんだんに盛り込まれ、読み物としても楽しめるものに『...
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2015/06/08か行
明治から昭和の物価については【資料1】~【資料8】で調べることができます。また昭和については【資料9】『昭和二万日の全記録 全19巻』の欄外にも記載があります。 ただしご質問の昭和20年頃は社会的にも不安定であり、インフレによって某大手企業社員月給(旧制中卒・在職22年手取り) の場合、366円18銭が翌月802...
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