2014年05月27日(火)〜07月13日(日)
2014年05月27日(火)〜07月13日(日)
平成26年(2014)のNHK大河ドラマは黒田官兵衛の生涯を描きます。官兵衛は、戦国時代末期、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に重用されながらも、あり余る才能ゆえに警戒され恐れられた男であり、乱世を見事に生き抜くとともに福岡藩52万石の礎を築いた、稀代の天才軍師とうたわれています。 播磨国(兵庫県)姫路を預かる小寺職隆の長男として生まれた官兵衛は、若くして父の地位を継承し、小寺家の家老の座に就きます。その後、信長、秀吉らに出会い歴史の表舞台に登場した官兵衛は、持ち前の智力をいかんなく発揮し、天才軍師として数々の戦を勝利に導きました。 また和歌、連歌や茶の湯を愛した文化人であり、クリスチャンでもありました。そして、生涯側室を持たず一人の妻と添い遂げたという一面も持ち合わせています。晩年は、長男・長政に与えられた筑前国福岡(福岡県)で静かな余生を送り、59歳でその生涯を閉じました。
この展覧会では、黒田官兵衛ゆかりの品や、同時代の歴史資料などを紹介し、官兵衛の人間像と彼が生きた時代を浮き彫りにします。
会期 | 2014年5月27日(火)~7月13日(日) | ||||||||||||||||
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会場 | 江戸東京博物館 1階展示室 (東京都墨田区横網1-4-1) 電話番号:03-3626-9974(代表)
・JR 総武線「両国」駅西口、徒歩3分 |
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開館時間 | 午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで) ※入館は閉館の30分前まで。 |
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休館日 | 毎週月曜日 | ||||||||||||||||
主催 | 公益財団法人 東京都歴史文化財団、東京都江戸東京博物館、NHK、NHKプロモーション | ||||||||||||||||
協賛 | 日本写真印刷、ハウス食品グループ本社、みずほ銀行 | ||||||||||||||||
観覧料 |
※高・大学・専門学校生の方は学生証を、65歳以上の方は年齢を証明するもの(健康保険証、運転免許証など)のご提示をお願いいたします。
※前売券は2014年4月1日(火)から5月26日(月)まで販売。会期中は当日券を販売。
※( )内は20名以上の団体料金。
※次の場合は観覧料が無料です。
※東京都江戸東京博物館常設展との共通券は東京都江戸東京博物館(開館日の入館時間内)のみで販売いたします。
※毎月第3水曜日(シルバーデー)は、65歳以上の方は観覧料が無料です。年齢を証明できるものをお持ちください。
【おもなチケット販売所】 |
展示資料目録
展示リスト
プロローグ ~戦場のよそおい~
信長、秀吉、家康、3人の天下取りの行方を左右した軍師・黒田官兵衛。信長に才能を認められ、秀吉を天下人の地位に導き、戦国の争乱に終止符を打ちます。官兵衛ゆかりの品々を通して、虚像のベールを剥ぎ取り、官兵衛の実像を紹介します。
1章 播磨に生まれ
官兵衛は天文15年(1546)11月29日に姫路で生まれました。守護家であった赤松氏に代わって播磨府中の姫路近辺を勢力下においた小寺氏のもとで政治手腕を高めた黒田氏。祖父の重隆、父の職隆に継いで若き官兵衛も、家中での存在感を増し、姫路東方の御着城に本拠を構えた小寺政職に仕えます。
このころ播磨の人々は、急速に勢力を拡大させた織田信長と中国地方の毛利方との間にあって、どちらに付くべきかの難しい選択を迫られていました。官兵衛は、政職を説得して天正3年(1575)に岐阜城の信長のもとに赴きます。姫路に生まれ育った官兵衛が、まさに歴史の表舞台へと躍り出た瞬間でした。
【織田信長像】 江戸時代 兵庫県立歴史博物館蔵 |
2章 有岡城幽閉
羽柴秀吉が播磨国に入ったのは天正5年(1577)。以後、官兵衛の献身的な協力のもとで播磨平定事業が進められました。
翌年に三木城の別所長治、有岡城の荒木村重が相次いで織田方を離れて反旗を翻すと、官兵衛は村重の説得に単身乗り込みますが、有岡城内の牢に幽閉されるという危機を味わいます。しかし、織田方の立場を変えることはありませんでした。
「三木の干殺し」とまで称された壮絶な兵糧攻めのすえ、天正8年に別所氏を降した秀吉は、毛利攻略を本格化させる拠点を姫路城に定め、三重天守を有する石垣造りの築城を開始します。自身の居城を秀吉に譲渡した官兵衛は、竹中半兵衛に代わる秀吉軍の参謀役として、以後の作戦行動に積極的な関与を見せていきます。
【金瓢箪頭立蟹爪脇立六十二間星兜】 桃山時代 個人蔵 |
【豊臣秀吉像】 江戸時代 堺市博物館蔵 |
3章 秀吉を天下人に
天正10年(1582)6月、大きな転機が訪れます。本能寺の変です。この時を境として、官兵衛は秀吉を天下人へと押し上げる役割を担うようになります。
天正17年(1589)、官兵衛は当主の座を嫡子長政に譲りますが、その後も、秀吉を助け、いくさの日々を続けます。翌18年、はるばる小田原にまで出陣して関東の戦国大名北条氏と戦います。この時、官兵衛は合戦を終結に導く重要な役割を務め、秀吉は官兵衛の活躍を伝える書状を子の長政に送っています。しかし、その働きを喜んだのは秀吉だけではありませんでした。敗軍の将である北条氏直がとりわけ官兵衛に感謝し、御礼として法螺貝や太刀などの品々を贈っています。秀吉の天下統一をもたらした小田原攻めにおいても官兵衛は抜群の存在感を示しました。
黒田官兵衛、この男がいなければ、豊臣秀吉の天下はありませんでした。
【賤ケ岳合戦図屏風(右隻)】 江戸時代後期 長浜市長浜城歴史博物館蔵 |
【太刀名物「日光一文字」】 鎌倉時代 福岡市博物館蔵 |
4章 如水となりて
秀吉は全国統一を果たすと、「唐入り」を目指して朝鮮に出兵。官兵衛は軍監として肥前名護屋城と朝鮮半島の間を往き来しましたが、有岡城幽閉に次ぐ人生二度目の危機が到来します。秀吉の怒りを買い、死を覚悟するまでに追い込まれ、この時出家し、如水と名乗りました。
慶長3年(1598)8月、秀吉が没すると、一挙に政局は流動化します。関ヶ原の戦いでは官兵衛・長政父子ともども家康の勝利に大きく貢献しました。
戦後、長政の抜群の戦功により、黒田家は筑前の太守となります。初代藩主・長政に対し、官兵衛は藩祖。官兵衛が福岡で過ごしたのはわずかな期間ですが、新たな封地を「福岡」と命名し、城や城下町の建設に取り組み、福岡藩二百六十年の礎を築きました。
【黒田如水自筆覚書】 文禄2年(1593)8月9日 福岡市博物館蔵 |
【木造東照権現坐像】 慶安3年(1650)開眼、 承応元年(1652)勧請 福岡・警固神社蔵 |
5章 文雅のたしなみ
官兵衛は、軍師としての活躍が過度に強調されて語り伝えられたためか、武辺一辺倒の人物という印象がありますが、文事にも秀でた文武両道の人でした。
【芦屋梅松文甑口釜】 戦国時代 山口・吉川史料館蔵 |
エピローグ ~思いおく言の葉なし~
「おもひおく 言の葉なくて ついに行く 道は迷はじ なるにまかせて」
時勢を達観する心境と、五十九年の生涯を存分に生き抜いたという満足感があふれている辞世の句を遺しました。
【黒田如水辞世和歌短冊】 慶長9年(1604)福岡市博物館蔵 |
■春期えどはくカルチャー
江戸東京博物館 開館20周年記念
特別展「軍師官兵衛」
※詳細は えどはくカルチャーのページをご参照ください。<終了しました>
■プレスリリース、写真のご用命は、広報事務局までお願いいたします。
2014年NHK大河ドラマ特別展「軍師官兵衛」広報事務局(スプレ・エィディー内)
担当:相原、白井、大塚
〒106-0041 東京都港区麻布台2-3-22 一乗寺ビル
TEL:03-3560-8223 FAX:03-3560-0855