E2_町の暮らし_棟割長屋
- 解説
- 長屋は、1つの棟(むね)を数戸に区切った住居です。なかでも、棟の前後で部屋を分ける形のものを棟割長屋(むねわりながや)と呼びました。屋根は杮葺(こけらぶき)で仕切りの壁は薄く、資材のほとんどが木と紙からなる木造建築で火事にもろかったことから<焼屋(やけや)>ともいわれていました。ここで復元した棟割長屋は、九尺二間の部屋が3戸と、間口2間、奥行き2間で約4坪の広さに居間が6畳となる部屋が2戸で、各部屋の生活の様子を再現しています。
E3_出版と情報_絵草紙屋
- 解説
- 「東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)」に描かれた和泉屋市兵衛(いずみやいちべえ)の店(甘泉堂(かんせんどう))をもとに江戸の絵草紙屋(えぞうしや)の店先を復元しました。天明期(1781~1789年)には黄表紙(きびょうし)の出版を手がけ、18世紀末の寛政期に(1789~1801年)には、歌川豊国などの錦絵を出版しました。和泉屋市兵衛の店は地本問屋であると同時に書物問屋(しょもつどんや)でもあり、絵草紙や錦絵のほかに、地図や往来物などを扱っていました。
E4_江戸の商業_菱垣廻船
- 解説
- 「天下の台所」大坂と大消費都市・江戸の間には、菱垣廻船(ひがきかいせん)という定期船が就航し、上方から木綿、油、紙などの大量の生活物資を運びました。菱垣廻船は、酒などを積んだ樽廻船(たるかいせん)とならぶ重要な輸送手段であり、その名の由来は、船の側面に菱組(ひしぐみ)の格子が取り付けてあったことによります。文化期(1804~18年)に描かれた1500石積の菱垣廻船の図をもとに復元しました。
E4_江戸の商業_三井越後屋江戸本店
- 解説
- 江戸時代の代表的な呉服店(ごふくだな)で駿河町にあった「三井越後屋」の店前(たなさき)を「本普請画図画(ほんふしんえずめん)」(1832年三井文庫所蔵)などをもとに再現しました。創始者・三井高利(たかとし)は、伊勢松坂の出身で、1673(延宝元)、京都に呉服の仕入店を設け、江戸に販売の店を開きました。模型で復元したのはこのうち「東見世」部分であり、さらに同程度の間口で「本見世」の部分があるので、いかに三井越後屋が大きかったかがわかります。
E5_江戸と結ぶ村と島_小金井橋と玉川上水
- 解説
- 玉川上水は、江戸の人口増加に対応するために新しく設置された上水で1653年(承応2)から翌年にかけて、玉川庄右衛門・清右衛門によって羽村から虎ノ門までが開削されたとされます。玉川上水の特徴はその測量技術であり、羽村から四谷大木戸までの開渠(かいきょ)部分の距離約43キロメートルに対し、標高差約100メートルでした。これは100メートル流れて20センチメートルほど下るというもので、測量技術の高さがうかがえます。
E5_江戸と結ぶ村と島_四谷大木戸水番屋
- 解説
- 玉川上水は、多摩川の水を羽村で取り入れ、四谷大木戸まで約43キロメートルを素掘りとし、そこから石桶や木桶を利用して地下水路(暗渠(あんきょ))とし、江戸城および神田上水が届かない江戸市中の南西部に上水を供給しました。この水番屋は、上水が開渠(かいきょ)から暗渠に移る分岐点に設置された上水を管理するための施設です。
E5_江戸と結ぶ村と島_上水道の利用
- 解説
- 江戸後期の町の様子を、「江戸沽券図」(東京都公文書館所蔵)、「天田家文書」(群馬県立文書館所蔵)などをもとに模式的に再現しました。通りをはさんでひとつの町を形成する典型的な両側町で、敷地割は奥行が京間20間(40メートル)でした。町内には、商家や長屋など居住施設以外に木戸・自身番屋・木戸番屋・火の見などさまざまな施設が設けられていました。
E6_江戸の四季と盛り場_神田明神山車
- 解説
- 「神田祭り」の山車(だし)(祭礼のとき、さまざまな飾り物などをして曳き出す車)のひとつを関東に現存する山車や絵画資料をもとに原寸大で復元しました。江戸時代、9月15日の神田明神の祭礼の日には、神輿の前後に30数台の山車とさまざまな練物(ねりもの)が従い、江戸町人の盛んな意気を示し、隔年に江戸城にくりこんで、将軍の上覧(じょうらん)に供しました。この山車は、江戸末期に人形師の古川長延(ちょうえん)によって改修された8番目須田町のものの再現で、人形は関羽(かんう)(中国の蜀漢(しょくかん)の武将)です。
E6_江戸の四季と盛り場_神田明神行列
- 解説
- 神田祭りの華やかで壮大な行列のありさまを当時の絵画資料をもとに、代表的な山車や神輿などを抜き出して復元しました。山車は、大伝馬町(おおでんまちょう)の鶏、旅籠町(はたごちょう)一丁目の翁、佐久間町一丁目の素戔嗚尊(すさのおみこと)の3台、神輿は、二之宮1基とし、人形は、旦那衆(だんなしゅ)、山車曳き手、神輿担ぎ手、囃子(はやし)方など、およそ300体を配置しました。
E6_江戸の四季と盛り場_両国橋西詰
- 解説
- 両国橋の西詰(にしづめ)の広小路には、軽業(かるわざ)や歌舞伎芝居を見せる見世物小屋、髪結床(かみゆいどこ)、水茶屋などがいくつも立ち並び、寿司、てんぷら、うなぎなどの屋台、西瓜売り、朝顔売りなどの物売りや大道芸人も多く集まっていました。夏の間は花火見物に興じる屋形船、屋根船、猪牙船(ちょきせん)が浮かび、その間を物売りやウロ船や花火船が行きかいました。この模型は、天保の改革の取締りの記録をもとにして、改革前の盛り場の姿を1500体の人形を配置して再現したものです。
E7_文化都市江戸_海外との文化交流
- 解説
- <鎖国>の時代、海外との通商は長崎の1港に限定されていました。貿易による金銀の流失を防ぐため、貿易量は制限されていましたが、オランダ船や中国船がもたらす舶来の品々は、やがて庶民生活のなかにも浸透していきました。江戸や大坂などの大都市では、舶来品を集めた物産会(ぶっさんえ)や、象やラクダなどの見世物が行われました。また、8代将軍徳川吉宗(よしむね)によって洋書の輸入禁止が緩和され、蘭学に代表される西洋の合理的・実用的な科学も日本に伝えられました。
E8_江戸の美_北斎の画室
- 解説
- 葛飾北斎(かつしかほくさい)の画室を、弟子の露木為一(つゆきためいつ)の描いた「北斎仮宅之図(ほくさいかりたくのず)」(国立国会図書館所蔵)をもとに再現し、名品誕生の舞台裏をのぞいてみました。北斎は、本所割下水(ほんじょわりげすい)(当館に近い、現在の墨田区亀沢付近)で生まれ、生涯に90回あまりも引っ越ししたと伝えられています。この模型は、そうした仮住まいのうち、83歳ころの北斎が榛馬場(はんのきばば)(現・墨田区両国四丁目付近)の借家に娘の阿栄(おえい)と住んでいたときの、彼の画室です。
E9_芝居と遊里_芝居小屋・中村座(正面部分)
- 解説
- 江戸時代の代表的な歌舞伎の芝居小屋である中村座の正面部分を、原寸大の間口11間(約20メートル)、奥行3間(約5.5メートル)で復元しました。ここでは、庶民も大名も、日常を忘れて歌舞伎の世界に心を遊ばせました。この模型の復元にあたっては、「中村座表の図」や『江戸名所図絵』なども参照しました。看板類は、1805年(文化2)11月の顔見世興行(「清和源氏二代将」(せいわげんじにだいのゆみとり))を想定して作成しました(絵看板は9代目鳥居清光画)。
E9_芝居と遊里_芝居小屋の構造
- 解説
- 中村座は、江戸時代の代表的な歌舞伎の芝居小屋のひとつです。江戸の芝居小屋は、たびたびの火災により新築・改築を繰り返していますが、この模型は、堺町(現・中央区日本橋人形町三丁目付近)の中村座に関する1809年(文化6)の記録等をもとに、芝居小屋の構造の復元を試みたものです。なお、舞台の破風(はふ)は、この時期にはすでになくなっていましたが、芝居の演目によっては仮設されました。
E9_芝居と遊里_助六の舞台
- 解説
- 江戸歌舞伎の代表的な演目「助六」を、架空の場面設定で展示しました。助六は1713年(正徳3)に2代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が初演し、その後、曾我(そが)十郎五郎兄弟の敵討ちを扱った作品群「曾我物」の一系等となり、「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」として完成しました。物語は主人公の助六とその恋人の揚巻(あげまき)、揚巻に横恋慕(よこれんぼ)している意休(いきゅう)を主な登場人物として、源家の重宝である友切丸(ともきりまる)の行方をめぐり展開しています。
E9_芝居と遊里_歌舞伎の仕掛け「東海道四谷怪談」のうち「蛇山庵室の場」
- 解説
- 江戸後期になると、芝居のなかにさまざまな仕掛けが考案されました。とりわけ4代目鶴屋南北(つるやなんぼく)作「東海道四谷怪談」は、多くの仕掛けが用いられ、幽霊の自在な動きが人気を呼びました。仕掛けを実際に動かすのは大道具の人々で、役者と呼吸を合わせて、瞬時に行われました。なお、展示効果を考えて、照明などの、演出は実際と変えているところがあり、また仕掛けの様子がわかるよう、背面に鏡が取り付けてあります。
E10_江戸から東京へ
- 解説
- このコーナーでは、江戸東京博物館からほど近い本所亀沢町(現・墨田区)で生まれ「江戸無血開城」に大きな役割を果たした幕臣・勝海舟に注目して、幕末・維新の時代を取り上げます。
T1_文明開化東京_朝野新聞社
- 解説
- 1872年(明治5)の「東京日日新聞」を皮切りに、次々と新聞が創刊され、東京の近代ジャーナリズムが開幕しました。「朝野新聞」は、1874年(明治7)に創刊され、社長の成島柳北(なるしまりゅうほく)、主筆の末広鉄腸(すえひろてっちょう)らが新政府を辛辣に批評し、人気を博しました。
T1_文明開化東京_第一国立銀行(部分)
- 解説
- 第一国立銀行は、近代銀行制度の導入に伴い、殖産興行への賃金調達を主な目的として、兜町(かぶとちょう)に設立されました。日本橋界隈の、地の利が良い兜町には、株式取引所・保険会社などが集まり、やがて日本を代表する金融街を形成するにいたりました。建物の構造は江戸時代からの伝統技法を基にしていますが、外観は西洋建築の意匠を取り入れた<擬洋風建築(ぎようふうけんちく)>です。
T1_文明開化東京_銀座煉瓦街
- 解説
- 銀座煉瓦街は、1872年(明治5)2月の銀座から築地一帯を焼き尽くす大火の後、近代国家にふさわしい街づくりとして、明治新政府によって計画、建設されたものです。計画の中心は、新橋ステーションから築地居留地や諸官庁を結ぶ銀座地域に、不燃家屋(煉瓦造り)を建設し、道路を拡張・改良しようとするものでした。大火の後、英国人トーマス=J=ウォートルスが設計を担当、建設には大蔵省建築局があたり、翌年には、西洋を模した街区が姿を現しました。
T1_文明開化東京_鹿鳴館
- 解説
- 鹿鳴館は、英国人技師ジョサイア=コンドルの設計によるもので、1883年(明治16)11月、欧化政策のシンボルとして、現在の日比谷の一角に落成しました。本模型では、100体以上の人形を配置し、当時の華やかな社交の様子をあらわし、とくに2階の舞踏室で舞踏会の様子を再現します。ダンスを踊る人々の姿が一望できる仕掛けとなっています。
T1_文明開化東京_ニコライ堂
- 解説
- 神田駿河台(するがだい)の丘の上に建つニコライ堂は、今はビルの谷間に沈んでいるが、かつては東京のいたるところから望むことができました。「東京ハリストス復活大聖堂」という正式な名称があるが、東京の人々には、明治期の日本・ロシアの交流に尽くした宣教師ニコライにちなむ<ニコライ堂>という名で親しまれています。関東大震災によって、ドームと鐘楼が崩れましたが、ドームなどは岡田信一郎の設計によって再興され、現在に至っています。
T2_開化の背景
- 解説
- 文明開化の一方で、庶民の衣食住は江戸の面影が色濃く残っていました。たとえば、学校教育の場面においては近代的教育がすぐに整備されたわけではなく、寺子屋から派生した私立小学校も多く存在しました。このコーナーでは、そのような過渡期にあった庶民の暮らしを描いたフランス人画家ビゴーの版画や近代教育制度の成立に関する資料、当時の学校で使用されていた教科書などを展示しています。
T3_産業革命と東京
- 解説
- 首都東京では、明治新政府による<富国強兵><殖産興業>政策のもと、産業が大きく進展していきました。また、上野で開催された「内国勧業博覧会」は国内外の技術が出会う場となり、民間産業の発展に大きく寄与することとなります。明治中期から後期にかけて、重工業が急速に伸長しましたが、一方で工場の騒音や労働者の劣悪な労働環境など様々な問題が起こります。このコーナーでは、そのような東京の産業発展の様相について紹介します。
T4_市民文化と娯楽_凌雲閣(浅草十二階)
- 解説
- <浅草十二階>の名で親しまれた凌雲閣(りょううんかく)は、英国人の技師ウィリアム=K=バルトンの設計によるもので、1890年(明治23)に落成しました。浅草のシンボルとして土産絵にも登場し、関東大震災で倒壊するまで多くの人々でにぎわいました。高さは220尺(約67メートル)とも197尺(約60メートル)ともいわれ、8階でまでは日本初となるエレベーターが設置されましたが、のちに危険性が高いとして運転が中止されました。復元にあたっては、当時の写真や錦絵をもとにしました。
T4_市民文化と娯楽_電気館(正面部分)
- 解説
- 活動写真は日本に入ってきた当初、芝居の劇場や地方を巡回するテントで上映されていましたが、1903年(明治36)に浅草六区の電気館が、日本で初めての常設の活動写真館になりました。当時、活動写真には音声がついていなかったので弁士(べんし)(解説者)が必要でした。電気館はそれまで見世物の口上を言っていた染井三郎が、そのまま弁士となって人気を支えました。
T4_市民文化と娯楽_六区活動写真街
- 解説
- 明治40年代に入ると、活動写真が人気を集め、六区の見世物小屋は次々と常設の活動写真館に替わりました。この模型は、活動写真館街としての形ができあがりつつあった、1912年(明治45)1月初旬の浅草六区の姿を、立体的に再現したものです。再現にあたり、各建築の構造は「浅草公園地の建物新築願」(東京都公文書館所蔵)に綴られていた建築図面を参考とし、絵看板や幟(のぼり)などの装飾は館蔵の写真をもとに製作しました。
T5_関東大震災_「関東大震災 東京市内における火災の状況」 アニメーション
- 解説
- 関東大震災において東京市内で発生した火災の広がりをアニメーション化しました。本アニメーションは、「東京市火災動態地図 大正十二年九月」(文部省震災予防調査会1924年)を底本に、「大正十二年九月東京火災動態略図」(中村清二『千九百二十三年九月東京に於ける大地震による火災』1925年)、井上一之「帝都大火災誌」(震災予防調査会『震災予防調査報告 第100号(戌)』1925年)、「烈風に煽られたる火勢」(警視庁消防部『帝都大震火記録』1924年)などを参照し作成しました。
T6_モダン東京_大東京35区・鉄道路線と人口の変遷地図
- 解説
- この地図は、大正~昭和前期にかけての東京市の区域と人口、そしてこの時代にに大きく延伸された鉄道路線の変遷を模式的に示したものです。ボタンを押すと、1912年から1935年までの35区の人口の変遷について、7段階の電飾の色調で再現し、省営(国有)および私営の鉄道路線はその開業時期に合わせて駅と路線とが点滅する仕組みです。なお、京王電気軌道を除いた私営の電気軌道(路面電車)については、電停は示さず路線のみの表示としました。
T6_モダン東京_下町の庶民住宅
- 解説
- この模型では、工場労働者が多く住んでいた中央区月島の4軒長屋(大正末期建造)の一部をモデルに、昭和初期の庶民の暮らしぶりを再現しました。当時は、便所や台所に電灯のない家が多く、台所へは、必要なときに二畳間から引き入れて使いました。ガスや水道が普及する以前は外で水汲みや火おこしをしたため、台所は露地に面して作られるのが一般的でした。この長屋にガスが引かれたのは昭和10年代、水道が個々の家庭に引かれたのは、戦後のことでした。
T6_モダン東京_和洋折衷住宅
- 解説
- この建物は、大正初めに建てられ、その後、1937年(昭和12)大熊喜英の設計によって改築された住宅(品川区東五反田)の一部を移築・復元したものです。「食堂兼居間」は、大正から昭和初期に流行した山小屋風で、となりの和室との仕切りには、カーテンと襖を使うことで違和感をなくしています。照明具や家具も部屋と調和するよう大熊がデザインを担当しました。
T7_空襲と都民_戦時下のすまい
- 解説
- この住宅は、東京下町地区によく見られた木造家屋の一室を復元し、空襲が本格化する直前の都民の生活ぶりを再現したものです。窓には爆風によるガラスの散乱を防ぐための紙が貼られ、電灯には、明かりが外にもれないように、灯火管専用のカバーがかけられていました。室内には防空頭巾や鉄カブトが置かれ、空襲の情報を知るために、ラジオは必需品でした。食糧不足が深刻化し、配給の米は玄米に近く、瓶に入れて、棒でついて精白しました。
T7_空襲と都民_風船爆弾(復元模型)
- 解説
- 風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直系10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器です。この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書をもとに、気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して製作しました。
T8_よみがえる東京_新宿ー夜のヤミ市ー
- 解説
- 1945年(昭和20)9月のはじめ、新聞に「光は新宿よりー」をキャッチフレーズにした新宿マーケットの広告が載りました。ヤミ市は、終戦直後、空襲で焼け野原となっていた駅前に誕生し、鍋や包丁・茶碗・下駄などの生活用品を販売していました。なお「新宿ー夜のヤミ市ー」模型は、写真や聞き取り調査をもとに、一部不明な部分については推測を交えて復元しました。
T9_高度経済成長期の東京_ひばりが丘団地
- 解説
- ひばりが丘団地は、1959年(昭和34)、北多摩群田無町、保谷町(両町は現・西東京市)、久留米町(現・東久留米市)の三町にまたがる場所に建設された集合住宅地です。各住戸の玄関にはシリンダー錠付のドアが取り付けられ、室内には浴室が設けられました。当時、浴室はおろかトイレや台所までをも共用しなければならなかった共同住宅が多かった状況下にあって、これらの設備はプライバシーを確保し、マイホームの概念を確立させるものとなりました。
T10_現代の東京_過去と現在の東京をつなぐ
- 解説
- このコーナーでは、みなさんの記憶に新しい時代の生活や文化についての展示を行い、1960年代から2000年代までを5つに分け、東京の変化を10年ごとに比較します。それぞれの年代に生まれ、そして消えた都市風景、注目されたモノや事象などをたどることにより、現代の東京がどのようにして変化し形成されてきたのか、時代の移り変わりをご覧いただけます。
江戸東京を掘る
- 解説
- 江戸の遺跡は、東京の都心部のいたるところから発見されます。この地層模型は、都立一橋高校(千代田区東神田)の発掘調査をもとに再現しました。ここは中世までは日比谷入江近くの葦(あし)の原で、江戸初期に埋め立てられて、寺院の一角となりました。1657年の明暦の大火により焼失したあと、長屋が建てられ、町屋のまま明治をむかえました。その後、震災・空襲の2度の惨禍(さんか)にあい、今日にいたりました。5メートルの地層のなかに、江戸から東京への歴史が埋まっています。
ミュージアムラボ
- 解説
- ミュージアム・ラボは、展示室の最後尾に位置する「体感・体験する」コーナーです。ラボ内は二つのスペースに分かれています。一つは1954年(昭和29)ころの暮らしを再現した住宅模型で、家庭電化製品や洋風の生活が普及する前の、季節感あふれる暮らしを追体験できます。もう一つは、さまざまな体験メニューやワークショップを実施するためのスペースで、むかしの生活道具に触れるプログラムや、企画展のテーマにちなんだワークショップなどを開催します。
手で見る展示
- 解説
- 手で見る展示は、視覚障害の方を対象とした「さわれる」コーナーで、5階案内所横に設置しています。実物大の「日本橋」、「芝居小屋中村座」、「神田明神の山車」などの建築模型を両手で触れる大きさのミニチュアにして、点字付きのキャプションとともに展示しています。また、喜多川歌麿、東洲斎写楽の大首絵(歌舞伎役者などの半身像を描いた浮世絵)を浮彫り細工により立体的にして、絵の輪郭だけでなく、結った髪の感触などがリアルに感じられます。視覚障害の方だけでなく、全ての方が新たな鑑賞方法としてお楽しみいただけます。