2013.03.12(Tue)〜2013.05.06(Mon)
2013.03.12(Tue)〜2013.05.06(Mon)
会期 | 2013年3月12日(火)~5月6日(月・休) | ||||||||||||||||
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会場 |
江戸東京博物館 1階展示室 (東京都墨田区横網1-4-1) ・JR 総武線 両国駅西口、徒歩3分 ・都営地下鉄大江戸線「両国駅(江戸東京博物館前)」A4出口、徒歩1分 |
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開館時間 | 午前9時30分~午後5時30分 (土曜日は午後7時30分まで) *入館は閉館の30分前まで |
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休館日 | 毎週月曜日 ※ただし、3月25日(月)、4月29日(月・祝)、5月6日(月・休)は開館 |
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主催 | 公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、NHK、NHKプロモーション | ||||||||||||||||
協賛 | 日本写真印刷、ハウス食品、三井住友海上 | ||||||||||||||||
観覧料 |
※高・大学・専門学校生の方は学生証を、 65 歳以上の方は年齢を証明するもの(健康保険証・運転免許証など)のご提示をお願いいたします。 ※前売券は2013年1月11日(金)から3月11日(月)まで販売。会期中は当日券を販売。 ※次の場合は観覧料が無料です。中学生以下、および身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方と、その付き添いの方(2名まで) <チケット販売所>
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巡廻会場 |
■福島県立博物館 http://www.general-museum.fks.ed.jp/ ■京都府京都文化博物館 http://www.bunpaku.or.jp/ |
プロローグ
明治元年(1868)9月22日に会津鶴ヶ城が開城。慶応3年(1867)10月14日の大政奉還から、およそ1年後にあたる。
会津の象徴であった端正な五層の鶴ヶ城の天守が、今にも崩れんばかりの様相をさらしている。官軍の砲撃はいかにすさまじいものだったか、そして被害はいかに甚大なものであったかを、古写真は語っている。
八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の子として生まれた。戊辰戦争時には、断髪・男装して、家芸であった砲術をもって奉仕。籠城戦で自らもスペンサー銃を持って、城内で奮戦していた。籠城は一か月にわたった。対する官軍は、薩摩勢の援軍を送るものの、鶴ヶ城は最後まで落とせなかった。籠城戦は激烈な戦いとなり、多数の無残な姿の遺体が会津城下に積み重なったという。また、その過程での白虎隊の悲劇も多くの人が語り伝えるところである。激戦の末、鶴ヶ城開城。
写真の鶴ヶ城天守は名古屋城や和歌山城など徳川家が好んで建てた建築様式の天守だった。まさに徳川の宿命を一身に背負い、 末の終焉を語ったようである。藩主松平容保はこの光景を世の中の移り変わりの帰結として見たかもしれない。官軍と戦った郷土会津とその人々は、疲弊した郷土の復興と敗戦という宿命を背負い、新しい時代を迎えることになる。そして八重は会津という武家社会の崩壊という現実を突きつけられ、新しい時代の生き方を問いかけられることになった。
第一章 会津の教え
山本家では、藩士である父親も17歳年上の覚馬も2歳年下の弟三郎も、幼児期からの教育で、藩祖保科正之の理想とした儒教的徳目に彩られた藩士の武士道を身につけていた。八重は、父親や兄を通して、藩士の子弟が 学ぶべき様々なことを学んだと考えられる。
会津藩には、日新館という藩士の男児が10歳で入学する学校があった。藩校への入学以前は、地理的に区分された組の中の小単位である什に所属した。この什には長幼の別を重んじた秩序があり、また集団生活を律する際に唱和した決まりごとがあった。最後が「ならぬものはならぬものです」と締めくくられる什の掟である。
日新館童子訓は、日新館入校後に素読が課された書物である。藩士の子弟は必ず学ぶべき 書物であった。八重は、幼少の頃、父親の権八から日新館童子訓を読み聞かせしてもらい、 7歳の頃には、暗誦することができたと述懐している。また、「三十日の籠城戦の悪戦苦闘に堪え えたのは、童子訓が徹底していたためであった」と回顧談を残している。
日新館を卒業して家臣となった者は、藩祖保科正之が定めた家訓十五ヶ条を忠実に遵守した。 藩士たちは、ことあるごとに家訓を拝読または拝聴し、土津大明神という神となった保科正之を 奉斎し、その理想とした儒教的徳目の世界を肝に銘ずるのであった。
本章では、八重の育った城下町の様子や、会津藩の教えを示す多彩な資料を紹介する。
日新館童子訓
江戸時代 享和3年(1804)
江戸東京博物館・福島県立博物館・
同志社社史資料センター蔵
第二章 幕末の京都
文久2年(1862)、会津藩主・松平容保は幕府の強い要請に応じ、新設された京都守護職に就任した。
同年12月24日に上洛した容保は、黒谷・金戒光明寺を本陣に定め、新選組、見廻り組などを配下として京都の治安維持にあたり、激化する尊王攘夷運動に対処した。この過程で、倒幕に傾く長州藩・薩摩藩との対立は深まり、蛤御門の変や鳥羽・伏見の戦いといった京都を舞台とした武力衝突へと展開することとなる。
容保の上洛に伴い、八重の兄である山本覚馬も京都に入り、会津藩砲兵隊を指揮した。しかし鳥羽・伏見の戦いの折、薩摩藩に囚われて相国寺に隣接する薩摩藩邸に幽閉される。そして、ここからはじまる一年あまりの幽閉生活は覚馬の視力を完全に失わせた。
しかしこの苦境の最中である明治元年(1868)6月、覚馬は『管見』という明治新政府に宛てた長い建白書を執筆した。その内容は列強諸国に対しいかなる立場で日本が向き合って行くかを冷静に分析した上で、「政体」「義事院」「学校」「建国術」「衣食」「女学」「平均法」など22項目にわたって新たな国家像に対する意見を述べている。この『管見』が後に京都府に採用され、覚馬自身も京都府顧問に就任することとなるのである。
本章では、会津藩上洛、鳥羽・伏見 の戦いなど幕末京都の動乱を物語る 資料を紹介するとともに、八重の兄・ 覚馬がいかなる形で京都と関係を取り 結び、新たな時代へと歩みを進めたの か概観したい。
第三章 会津籠城
慶応4年(1868)8月23日、鶴ヶ城での籠城戦が開始された。 登城をつげる早鐘が鳴り響く中、八重は鳥羽・伏見の戦いでの負傷 がもとで江戸で亡くなった弟・三郎の形見の装束を着て、大小の刀 を差し、当時最新式であったスペンサー銃を担いで入城した。籠城 した女性はおよそ600人いたといわれており、松平容保の義姉・ 照姫の指揮のもと、炊飯、弾丸の製造、負傷者の看護にあたった。 また、八重はそれらの仕事に取り組む一方で、幼なじみの高木時尾 に断髪してもらい、男性に交じって夜襲や弾薬の運搬も行った。
新政府軍は鶴ヶ城の南東に位置する小田山からアームストロング 砲などで砲撃を行い、9月14日に開始された総攻撃では1日に 2000発超える砲弾が撃ち込まれた。これに対して、八重は夫・川崎 尚之助とともに大砲で応戦し大きな成果を挙げた。
9月22日、会津藩は降伏し、1カ月にわたる籠城戦は幕を閉じた。 この日の夜、八重は三の丸の白壁に笄で和歌を刻んだといわれる。
明日の夜は何国の誰かなかむらん なれし御城に残す月かげ
ここからは戦いに敗れ、城を離れることへの強い無念の思いが伝わってくる。
戊辰戦争は、生まれ育った鶴ヶ城下を焦土とし、父・権八や弟・三郎、ゲベール銃の 撃ち方を教えた白虎隊士・伊東悌次郎が命を落とすなど、八重から多くの大切なものを 奪っていた。それだけではなく、戦争後に夫・尚之助と離縁した。
本章では、八重が戦った会津における戊辰戦争の激戦を物語る数々の資料を紹介する。
明治10年(1877)
福島県立博物館蔵
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第四章 古都復興―覚馬と襄―
蛤御門の変、戊辰戦争と京都は大きな戦火に見舞われた。そして、続けざまに大変革が起こる。明治2年(1869)3月、 明治天皇は京都へ再び戻ることのない東京行幸を行った。いわゆる、東京奠都である。奠都は、御所周囲の御公家衆の東京移転を強制した。これに伴い、禁裏御所、仙洞御所を含む築地で囲まれた九門内は、かつての活気を失う。さらに、明治3年(1870)の上地令で、300以上存在した京都の各藩邸は整理され、明治5年(1872)には、ほぼすべての藩邸が京都府に接収された。社寺も例外なく、明治4年(1871)の社寺領上地令で境内を除く私有地が府に接収された。新しい時代を迎えた京都にもはや往時の面影は失われていた。
しかし京都は、のちの京都府知事である槇村正直のもとで、着実に近代化への歩みを進めていた。明治2年には明治5年の学制に先駆けて市内に小学校が設けられた。明治4年には二條河原町下ルの旧長州藩邸に勧業場が設けられ、殖産興業政策が実施されていく。
その最中、明治4年4月4日、府の洋学者のブレーンとして雇用されたのが八重の兄・山本覚馬であった。覚馬は京都博覧会をはじめとし、殖産興業政策に辣腕を振るう。その覚馬に見出され、彼の妹八重を妻としたのが、明治8年(1875)11月29日同志社英学校を創立した新島襄であった。
本章では、京都の衰退と近代化の過程で登場した覚馬と襄、そして八重のゆかりの品々を通じて、変革の時代を生きた3人の姿をみていく。
新島旧邸 同志社社史資料センター提供
新島襄書簡 明治13年(1880)2月25日付 同志社社史資料センター蔵
第五章 ハンサムウーマンへ
八重を「ハンサム」と評したのは襄である。襄は、明治8年 (1875)11月23日、留学時代の恩人の1人であるアルフィアス・ハーディ夫人のスーザンに手紙を送った。その手紙には、同封した八重の肖像写真を示 しながら、「彼女は決してハンサムではありません」と一言入れた後、「私が理解していることは、彼女は美しくふるまう(dose handsome)人だということです」と書き加えた。つまり、「ハンサム」という言葉は、そもそもは外見の美しさでだけではなく、ふるまいの美しさ、も しくはそのふるまいの奥に ある内面の美しさをも讃えた言葉である。しかも、2人の婚約から1ヶ月後、結婚の2ヶ月前の言葉である。襄は八重と出会って まもなくして、八重の「内なる美」に心惹かれていたわけである。
かつて襄は八重と出会う前、明治8年3月7日、父に宛てた手紙の中で、結婚相手に求める理想を書いた。顔の良し あしは別として、内面が素晴らしく、教養をもった人物が、襄が結婚相手に望む理想である。続けて襄は日本の女性のような「何か」がない女性とは生涯を共に することは絶対に出来ないとも書いている。原文には「何か」が欠落しているが、それは襄が10年に及ぶ海外での生活を経験してもなお 生涯の伴侶に求めたい、日本人の女性固有の「何か」 であった。もちろん八重にも備わっていたからこそ、 襄から見れば八重は「ハンサム」なのである。
本章では、数多く残された八重の後半生の資料を 追うことで、襄が惹かれた「内なる美」と、この 「何か」を考えてみたい。
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日本赤十字社 篤志看護婦人会正装用帽子 明治時代 同志社社史資料センター蔵 |
エピローグ
昭和3年(1928)、この年は会津の人々にとっては忘れられない年となった。 そもそも同年11月には昭和天皇の即位の礼が行われた。慶賀に満ちた年である。
御大典に先立つ9月28日、昭和天皇の皇弟・秩父宮雍仁親王の婚儀が行われた。妃殿下になられたのは旧会津藩主松平容保の6男松平恒雄の長女。御成婚に際して、親王実母貞明皇后の名「節子(さだこ)」と同字であることから、皇室ゆかりの伊勢そして松平家の会津から一字ずつ取り、同音異字の勢津子に改めたという。改名に会津人としての誇りが察せられる。そしてこの御成婚を会津の人々は心からから喜んだ。「逆賊」「朝敵」の領袖である松平容保の孫にあたる勢津子の入輿は、旧会津藩の士族の復権に繋がるものと理解されたのだった。
11月17日、京都会津会秋季例会が催された。 明治元年(1868)9月22日の鶴ヶ城落城からおよそ60年後、歴史の悲劇を忘れなかった会津の人々は、京都守護職会津藩主松平容保が本陣とした黒谷に集ったのだった。参会した人々は法要後に会津墓地内記念碑前において記念撮影を行った。
参会者の中央には会津松平家当主保男、松平恒雄、山川健次郎など歴史に名を刻んだ人が座している。そして前列左から3番目には八重の姿も見える。
この記念写真の裏面に、八重は一首を書き記した。
千代ふとも いろもかわらぬ若松の 木のしたかげに 遊ぶむれつる
何年経たとしても変わらぬ郷土愛のもとに集まる会津人のことを詠っている。60年にものぼる苦難を乗り越えた会津の人々。 その彼らをつないでいたのは、郷土を想う心、そして‘絆’だった。
■えどはくカルチャー |
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