企画展 5F

2022年01月02日(日)〜03月31日(木)

企画展「徳川一門 ―将軍家をささえたひとびと―」

 

 長き戦乱の世に終止符をうち、慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた徳川家康。以降、260余年にわたって泰平の世が続いた江戸時代は、家康を始祖とする徳川将軍家の治世によってもたらされました。この徳川将軍家は、どのように築き上げられたのでしょうか。

 江戸幕府の将軍は15代続きました。しかし、初代家康の直系は4代家綱で、徳川宗家の血筋は7代家継で絶えています。そのため、御三家のひとつである紀伊家から吉宗が8代将軍として迎えられ、以降は11代家斉が一橋家から、14代家茂が紀伊家から、そして最後の将軍15代慶喜は一橋家からと、御三家・御三卿から将軍職を継承した人々が、将軍家を支えていきました。将軍家存続の背景には、こうした「外」から将軍家に入った徳川のひとびとの存在が大きいといえるでしょう。

 本展では、このような将軍家を支えた徳川のひとびとの活躍を、徳川宗家に伝来するゆかりの品々を通してご紹介いたします。

 

【学芸員による展示資料解説】

開催概要

会期

2022年1月2日(日)~ 3月6日(日) 3月31日(木) *会期延長しました

*1月31日(月)は展示替え予定日

会場 東京都江戸東京博物館 常設展示室内 5F企画展示室

電話番号:03-3626-9974(代表)

 

・JR 総武線 両国駅西口、徒歩3分
・都営地下鉄大江戸線 両国(江戸東京博物館前)駅A3・A4出口、徒歩1分
・都バス:錦 27 ・両 28 ・門 33 系統、墨田区内循環バス「すみだ百景すみまるくん・すみりんちゃん(南部ルート)」「都営両国駅前(江戸東京博物館前)」下車、徒歩3分

開館時間 午前9時30分~午後5時30分(土曜日は午前9時30分~午後7時30分)
※入館は閉館の30分前まで
休館日

1月11日(火)・17日(月)・24日(月)・31日(月)、2月7日(月)・14日(月)・21日(月)・28日(月)、3月7日(月)・14日(月)・22日(火)

主催 東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、公益財団法人德川記念財団
観覧料金  企画展は常設展観覧料でご覧になれます。

観覧料
一般 600円(480円)
大学生・専門学校生 480円(380円)
*中学生(都外)・*高校生・65歳以上 300円(240円)
中学生(都内)・小学生以下 無料

 

*2022年3月28日(月)は開館記念日につき特別開館し、常設展の観覧料がどなたでも無料です。当日は、直接6階常設展示室入口にお越しください。

 

*2022年3月19日(土)~31日(木)は、「Welcome Youth -2022 春-」実施期間につき、18歳以下(2003年4月2日以降生まれ)の方は常設展の観覧料が無料です。
ご利用当日は1階または3階の「チケットうりば」にて年齢を証明するものをご提示ください。

 

*(  )内は20名以上の団体料金。

 

*中・高・大学・専門学校生の方は学生証を、65歳以上の方は年齢を証明するものをご提示ください。

 

*次の場合は常設展観覧料が無料です。身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方と、その付き添いの方(2名まで)。

 

*新型コロナウイルス感染症の状況によって、会期・開館時間・観覧料・各種割引サービスを変更する場合がございます。最新の情報を当館のホームページでご確認のうえ、ご来館ください。

 

 

展示構成

 プロローグ ―将軍家康―

 長き戦乱の世に終止符をうち、慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた徳川家康。以降、260余年にわたって続いた江戸時代という泰平の時代は、家康を始祖とする徳川将軍家の治世によってもたらされた。

 幕府草創期において徳川家の基盤となったのは、家康のこどもたちであった。その子息を概観すると、長男信康のぶやすは織田、武田氏との外交関係の中で自刃し、次男秀康ひでやすは豊臣秀吉の養子に、3男秀忠ひでただは嫡子として江戸に据え置かれた。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いまでにもうけた子息はこの3人を含めて8人いたが、長男と3男を除く6人が他家の養子となり、譜代大名として徳川家を守る存在とするべく布石された。関ケ原の戦い後には、4男忠吉ただよしは尾張国清須藩52万石、5男信吉のぶよしは常陸国水戸藩15万石、6男忠輝ただてるは下総国佐倉藩4万石ののちに越後国高田に60万石を与えられる。しかし、忠吉と信吉が早世し、忠輝も自らの不行跡により改易に処せられた。その結果、後に儲けた9男義直よしなおが尾張に、10男頼宣よりのぶが駿府(のちに紀伊へ転封)へ、また11男頼房よりふさは水戸に封ぜられた。

 こうして家康の子どもたちは政治的・軍事的枢要地を得て、徳川を名乗る。のちに徳川御三家につながるこの徳川一門の創設は、徳川幕府による支配体制を促すとともに、将軍家の存続を支える大きな存在となっていく。

 

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「御系図」 德川記念財団蔵

 

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天海賛 四代木村了琢筆「東照大権現像」 德川記念財団蔵
展示期間:1月2日(日)~3月6日(日)
※3月8日(火)以降はパネル展示

 

 第1章 御三家・御三卿 ―吉宗の登場―

 家康は歿後に東照大権現として神格化され、その子義直よしなお頼宣よりのぶ頼房よりふさを当主とする徳川三家は、尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家となり、のちに御三家ごさんけと呼ばれるようになる。この御三家は神君家康の血を引く家柄として、幕府の重要政策への参画や将軍家に後嗣がいない場合に将軍継承者を輩出するなど、大名の中にあって他とは異なる重要な役割を担うこととなった。

 しかしながら、家康以降の将軍家は2代秀忠ひでただから7代家継いえつぐまで嫡流で継承されていった。このことにより、徐々に将軍家と御三家の血縁は疎遠になる。そのようななかで、正徳6年(1716)家継がわずか8歳で夭折すると、この血統は絶えてしまう。そこで、御三家から初めて将軍家を相続し8代将軍となったのが、既に紀伊家当主となっていた吉宗よしむねである。初代家康の曾孫という血縁の近さからであった。

 紀伊家出身の吉宗は、時代とともに御三家と将軍家との間柄が疎遠になったことを受け、また自らの血統を維持するべく、自らの次男宗武むねたけと4男宗尹むねただにそれぞれ、江戸城田安門内と一橋門内に邸を与え、新たに一家を起こさせる。いわば将軍の家族としての位置づけをした。これを御両卿ごりょうきょうという。この後、9代家重も自らの次男重好しげよしに同じく清水門内に邸を与え、これをもって田安・一橋・清水の御三卿ごさんきょうが誕生する。

 以降、連綿と受け継がれていく吉宗の血統は、吉宗の曾孫にあたる11代家斉いえなりを経てさらに拡大していくこととなる。

 

「徳川宗家系図」 個人蔵・徳川宗家文書

 

「徳川家関係城館図屏風」 東京都江戸東京博物館蔵

 

 第2章 一門の広がり ―家斉とその子どもたち―

 化政文化が花開いた文化・文政(1804~1830)のころ、時の将軍は御三卿一橋家より迎えられた11代家斉いえなりであった。一橋徳川家2代目であった治済はるさだの長男として生まれ、天明7年(1787)に将軍宣下を受けた時わずか15歳。御三卿から出た初めての将軍は、在職年数50年、さらに4年間大御所として「西の丸政治」を行い、通算54年と歴代稀にみるほど長期的に政権を握る。

 家斉は、53人と多くの子女を儲け、実子の大多数を御三家、御三卿、さらには外様大名へ次々に養子や婚姻によって配した。これにより、将軍家を外から支える血脈を広げていく。なかでも、津山藩主であり幕府側の大政奉還の実務を指揮した16男松平まつだいら斉民なりたみ確堂かくどう)や、外様大名である徳島藩主蜂須賀はちすか斉昌なりまさの養嗣子に出された22男の蜂須賀斉裕なりひろらが、幕末政局において果たした役割は大きい。また、7男徳川斉順なりゆきは紀伊徳川家11代目となるが、その子慶福よしとみ(後の家茂)は時を経て紀伊家から将軍家を継承する。

 こうした破格の長期政権の掌握と多数の子女の縁組は、8代吉宗から始まった新たな徳川宗家の血統の流れを拡大するとともに、確固たるものへと築き上げ、将軍家を支えたのである。

 

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「本小札濃勝糸威二枚胴具足」 東京都江戸東京博物館蔵

松平斉民筆「山水図」 德川記念財団蔵

 

 第3章 激動の中で ―天璋院・家茂・和宮・慶喜―

 まさにペリー率いる4隻のアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に現れた嘉永6年(1853)6月、12代将軍家慶いえよしは死去し、同年11月に4男家定いえさだが13代将軍に就任した。しかしながら、家定は病弱であったためか実子には恵まれず、すでに在職中から将軍継嗣問題が浮上していた。

 家定の死後、権謀術数渦巻く将軍の跡目相続は、大老・井伊いい直弼なおすけの強い後押しにより紀州藩主であった慶福よしとみ家茂いえもち)が14代将軍に就任することで収束する。だが、攘夷運動をはじめとする熾烈な内政、兵庫開港と条約勅許等の外交と、家茂は苦境に立たされ、慶応2年(1866)わずか21歳でその生涯を終える。その後を引き継ぎ15代将軍となったのは、水戸家出身であり、後に一橋家当主となった慶喜よしのぶである。

 激動の時代における将軍は、2代続けて御三家・御三卿出身であったが、外から将軍家に入り家を支えたのは、将軍その人だけではない。薩摩藩主島津家の一門のひとつ今和泉島津家に生まれ、13代家定の御台所となった天璋院てんしょういん篤姫あつひめ)。そして、緊張関係にあった幕府と朝廷の関係修復のため14代家茂の正室として降嫁した皇女和宮かずのみや。この二人の御台所は、国事に奔走する将軍が不在となった江戸城大奥を束ねただけでなく、婚家である徳川家の存続の重責を担い一命を賭した。

 幕末の将軍家は継嗣問題や抗えない新時代の波と、様々な問題に直面する中で、外から将軍家にはいった人々によって支えられ「家」を存続させていくのであった。

 

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円山応立筆「四季花鳥絵巻」 德川記念財団蔵

 

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「黒塗牡丹紋散松唐草蒔絵雛道具」 東京都江戸東京博物館蔵

 

 エピローグ ―公爵家達―

 慶応3年(1867)12月に王政復古の大号令により幕府・将軍職が廃止された後、時は江戸から明治へ、政権は徳川幕府から明治新政府へと転じる。

 最後の将軍となった15代慶喜が恭順・謹慎を貫くとともに、天璋院・和宮による江戸進撃の中止と家名存続の働きかけ、そして勝海舟らの尽力により江戸無血開城がなされると、慶応4年(1868)閏4月29日、徳川宗家の家名相続が認められた。御三卿田安家から徳川宗家16代当主を継いだ田安たやす亀之助かめのすけは、この時わずか6歳であった。宗家相続後、亀之助は徳川家達いえさとと名を改め、同年5月、新政府によって駿河国府中(現在の静岡県静岡市)城主となり70万石を下賜された。翌明治2年(1869)には版籍奉還によって静岡藩知事となるが、明治4年(1871)に廃藩置県が実施されると、各藩知事と同様に辞官し、東京へと戻る。

 時代の転換期とともに徳川将軍家は公爵家となり、明治以後の新たな徳川家へと変化を遂げる。しかしその目まぐるしい変化の中にあって、「家」は確実に継承されていった。

 

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「非役有位(四位以上)大礼服」 德川記念財団蔵
展示期間:2月1日(火)~3月31日(木)

 

関連事業

ミュージアムトーク

 

1月7日(金)、1月28日(金)、2月4日(金)

(各回とも16:00から15分程度、於:常設展示室内5F企画展示室)